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対岸視(アウェイ認知)

更新日:2020年3月13日

ロールシャッハ検査法に関するこの考え方は、辻先生がキャリアの後半になって着想した考え方だそうです("アウェイ”という言葉は1991年発足のJリーグの盛り上がりに影響されたとも)。


通常ロールシャッハ課題は、「何に見えるか」を聞かれるので、何に見えるかよくわからない曖昧な図版を見て、それを「何に見えるか」考えるために心に引き取って、心の中で自分の記憶(エングラム)と照合し、反応として産出しなければなりません。しかし、主にプレエディパルな問題に留まっている人たちは、こうした“よく考える”プロセスをすっ飛ばして反応を産出することになるので、様々な問題が反応の中に現れるようになります。


例えばそれは「ズタズタ反応」とか、「作話結合反応」だとか、「contamination」だとか、阪大法で言えば「(W)」「DW」と言ったような外輪郭形態を識別していない反応だとかですね。こうした反応はついついサインアプローチの観点から、すぐに病気の指標として判断しがちなのですが、阪大法の構造分析的にはそもそもそうした問題のある反応産出がどのような被験者の体験となっているのかを考えていきます。


そこで「対岸視(アウェイ認知)」という考え方が出てきます。先に述べたように「図版の刺激を自分の心に引き取らない」ということは、「あっちの世界がそうなっているからそうだ」という判断や体験となります。つまりその体験は、その人の「ホーム」ではなく「アウェイ」となっているわけです。わかりやすい例で言えば、「あいつが変なこと言ったから、自分はダメになったんだ」みたいな「外在化」と呼ばれる現象。しかしこれがすぎると、辻先生の本で言えば「事例ST(40代になって統合失調症を発症;「見かけの識別認知」)」のような問題(外在化により妄想が顕在化して、それを修正できない)が出てきてしまう。


またロールシャッハ業界では有名なⅣ図版の「手堅くやっている政治家の肝臓」なる反応も、客観的に図版にそんな混じり合った形状や状況がないにも関わらず(人間像と内臓とが別々なら見れる可能性がある)、見た人は「そっち(図版の側)がそうなっている」という認知で、そうだと思いこんでいる(だから可能な反応)。適切なFや反応を分けるというような主体的取り組みを回避して、責任を図版の側に押し付けている。実際はそれは図版の問題ではなくその人の心の問題なのだけど…。みたいなプロセスが生じているわけです。もう少しわかりやすく。これがもし正常な人だとどうなるのか。


もしもⅣ図版を見て、「手堅くやっている政治家の肝臓」との着想がその人頭にぱっと浮かんだとしても(正常ならばありえないのですが)、「これは大男と内臓は別々のものと見たほうが良いな」「大男には見えるけど、政治家という表現は図版と適合しているかどうか?」「全体で肝臓はちょっとないな」みたいなプロセスが生まれるわけです。これは阪大法では「フィードバック」とも言い、自分の着想を改めて確認するような2段階認証のような姿勢でもあります。


そこで比較してまた先の問題な人の体験に戻りましょう。フィードバックのような自分の着想とのすり合わせがないということは、その人は図版に「手堅くやった政治家の肝臓」が“ある”と思い込んでいるのです。これは「誤認知」程度で済めば良いですけど、「妄想(修正不可な思い込み)」になると大変です。まあここまで話をすれば、「それって“投影同一視”に近いのではないの?」と思われるかもしれませんが、そうなんですね。しかももっと低次の防衛である、「分裂」や「否認」などにも通じるものがある。責任の引き受けずに「あっちがそうなっている」とやっていることと、自我境界が曖昧なこととのコラボレーションで、こうした精神分析的なプレエディパルな問題がロールシャッハ的に理解する(あるいは反応から読み取る)ことができるのが、対岸視、あるいはアウェイ認知を理解するポイントではないかと思います。


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